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今日のNHK杯 [将棋]

今日のNHK杯の松尾-木村戦・・・。

竜王戦第三局と、時系列的には、どっちが前だったんでしょうかね。何となく、竜王戦の方が修正手順のような・・・。まあ、それはともかく、最近の横歩取りは、あの形が少し流行しているのかな。

これで、渡辺竜王・木村八段と受けの雄が受ける展開で押し切られたわけですね。まあNHK杯は早指しなので受ける方が少し不利ですが。たまたまというか、後手側も、羽生名人に松尾七段と攻撃力の高い棋士でしたしね。

終盤がかなり難解なので理論的にはどうか分かりませんが、実戦的には後手が勝ちやすいということでしょうか。横歩取りらしく、後手が攻勢をとれる戦型ですし、要注目ですね。

個人的には、横歩はいつも取る方で、新山崎流を使うことが多いので、この形はあまり詳しくないです。ただ、最近、中住まいも指してみようかなと思っていたところで、そこへ来て立て続けに先手がやられたので、この形は十分に警戒しないといけないかなという感じですね。

先手は、▲4六歩~▲4七銀のタイミングが難しいですね。あと、序盤で▲1六歩を入れられれば、終盤で、△1五桂の筋がない分、かなり違いそうですか。ただ、どこで入れるかは難しいですけど。タイミングとしては25手目くらいでしょうか。ここなら突き合ってくれるかもしれない。でも、△4一玉型では、ここですら端は手抜いてくることも考えられます。竜王戦第一局のように△5二玉型でさえ端攻めは難解だという結論だとすると、△4一玉型なら一筋を突き越されても全然平気だという考え方ですね。・・・かと言って、先手側としては、これよりも前というわけにはいかないし、これよりも後だとますます緩手になる恐れが高いし・・・。やっぱり、▲1六歩は入らないのかもしれないですね・・・。


タグ:将棋

月を吹っ飛ばすよりは、尻尾を切った方が現実的 [夜話]

今日は、ちょっとくだらない話。

少年漫画や格闘ゲームなどでおなじみの気功波。そのメカニズムの詳細は不明ながら、光る何かを出して相手を吹き飛ばすっていう、あれ。

それについて、とある理系人間どもが語ると、↓のように、なります・・・という例(笑)・・・まるで、なんとか読本みたいですが。

~(休憩中)~

A:「か○はめ波とか使えたら便利だよね~。何とかできないのかな~。」

水琴:「そ~だね。でも、使えたとしても使った途端にバテバテになるんじゃない?エネルギー保存則から言うと。ふつ~に、攻撃した方が燃費いいんじゃないかな?」

A:「おおう。確かに。・・・じゃ、むしろダイエットに使えないかな。」

水琴:「試しに計算してみる?・・・体重60kgの敵を秒速10mで吹っ飛ばすためには、3kJ必要か。」

A:「え~と、体脂肪0.1gで、だいたい3kJじゃない?」

水琴:「あれ、そんなもん?そうか、水分含有量が20%くらいとすると、7.2kcal/g。1cal≒4.2Jだから、まあ大体そうだね。」

A:「全然、痩せませんな(笑)」

水琴:「残念でした。・・・ということは、何とか波って、意外とできる子なの?」

A:「ほらほら、良い感じじゃない。仮に1秒間で1kg痩せれば、3万kWだよ!原発一基の3%だよ?凄まじい威力だ。周辺、軽く吹っ飛ぶんじゃない?・・・そうだ!月、飛ばせるかな?」

水琴:「は?」

A:「いや、ほら。亀仙人とか、ピッコロが月を吹っ飛ばしちゃうシーンがあるでしょ?あれ。」

水琴:「ふ~ん。でも、さすがに月は無理でしょ(苦笑)」

A:「計算、計算♪」

水琴:「へいへい。月を地球の引力圏の外に飛ばすのに必要なエネルギーか・・・。重力位置エネルギーは、-GMm/R(注:G=万有引力定数、M=地球の重さ、m=月の重さ、R=地球と月の中心間距離)で計算できる・・・と。って、約7.6×1025kJ!!!・・・やっぱり月は、無理ですな。オーダーがおかしいよ。」

A:「待て待て。脂肪化学反応で燃やすからエネルギーが足りないのだよ。こうなったら核反応だよ(笑)」

水琴:「E=mc2(苦笑)」

A:「その通り!1kgの質量を完全にエネルギーに変えれば・・・、約1014kJ?・・・だめだ。核反応でも全然足りないやonz」

水琴:「やはり、厳しいですな~。太陽とかに絡め取ってもらえば、もう少し少なくて済むかも。」

A:「まあ、でも10桁も20桁も変わるとは思えないな。」

水琴:「そうね。ところで、月とか吹っ飛ばしちゃったら、いろいろ困るのでは?」

A:「劇中では、お月見はどうする?って司会者が突っ込んでたな。あと、狼男ならぬ男狼が・・・(略)。」

水琴:「ふはは。それも大変だけど、潮汐とかどうなるんだろ?太陽しか起潮力がなくなっちゃうと、大幅に変わるよね。海の生態系が大混乱するんじゃない?」

A:「ああ、確かに。海洋生物って潮汐に合わせて、行動してるもんね~。それか、地球の歳差運動が狂って氷河期が来ちゃったりとか・・・」

~(以下略)~


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第23期竜王戦第四局(二日目) [将棋]

羽生名人の封じ手は、▲4六同角でした。見事に、外れ(^_^;)

ただ、羽生名人自身は、これでは面白くなく、もっと工夫すべきだったという感想だったようです。実際、このあとの展開を考えると、いつでも一歩補充できるように端の突き捨てを入れておいた方が良かったかもしれませんが、まあこれは結果論でしょう。

▲4六同角には、△2七角の筋が気になる・・・と書きましたが、それは実戦では現れず。渡辺竜王は△4四歩とじっと固める手を選びました。4五が争点になっているので、それをずらして受けようというテクニック。部分的には、ときどき現れる手筋ですが、ここで使うのは見えなかったです。

しかし、両対局者にとっては、このあたりの応酬は、十分想定の範囲内だったようで、午前中からばしばしと手が早い。やはり、異次元ですね(^_^;)

羽生名人は、51手目▲3四歩から相手の陣形を乱しつつ銀交換して、▲6四角(63手目)。名人らしいふわっとした手。手順に△5四歩を突かせたので・・・という意味だというのは、この局面になれば思いつきますが、何手も前からこの局面を想定して進めているというのが信じられない。不思議なもので50手目の局面から、頭の中で読み進めていると、ここで▲6四角では先手が自信がない気がして、読みを打ち切ってしまいそう。でも、実際に眺めてみると後手も対応が難しそうなわけで、そういうところを逃さない感覚がすごいです。

ここでは、△5五銀は仕方のないところか。先手は当然金をむしりとって、▲2四歩の突き捨てから攻撃を継続。このあたり、もう一歩補充できれば、先手の攻めがいくらでも続きそうな感じなので、端の突き捨てが入っていればなあ~と思ってしまうけど、それならそれで後手はこういう受けは選ばないはずなので、難しいですが。

結局、一連のやりとりの結果、72手目△4六歩と押さえられてみると、先手の攻めが急に細くなったような気がする。直前の▲4七同飛は、どうだったんでしょうか・・・。むしろ、△4七歩のタタキでしびれていたという方が正しいのかもしれないけど。

78手目△3六歩は、驚きました。アグレッシブな受けですね。さくさく桂馬を取って喜んでいてはいけないということのようです。こちらの方が勝るんですね。しかし、最後の一歩を投入するだけに、発想しづらい手。いやあ、ぎりぎりのラインを攻めてますね。

80手目△3五銀打のところでは、ひねって△2五銀ではダメなのかな。3四への利きを足す意味で。まあ、でも普通は△3五銀打ですか。

先手は、▲3三歩成から手をつなぐ。そして、87手目▲5三銀が羽生流の寄せ。これは、どきっとしますね。受ける方としては心臓に悪い手。意外と受け方が難しい。4四に桂を埋めるか、2五桂でも打っておくか・・・(解説によると△2五桂は後手不利らしいですね)と思ったら、△3四玉!え~っ!?ここで▲4四金打たれたら完全な一手パスだよ?こんなところで、パスが最善ということなの?・・・ふ、深い[あせあせ(飛び散る汗)]

必然的に、95手目▲2一飛成まで進み、ここで、ようやく後手の手番に。しかし、後手玉はナナメ駒を渡しにくい格好ですな。ということで、一度△2二歩ですか・・・と思ったら、△6九銀。やっぱり踏み込みますね~。

先手はナナメ駒が欲しいので、喜んで金銀交換に応じて、▲6四銀(103手目)としばる。これは誰でもこうしたくなりそうなところ。

そこで、△5七と!あくまで強気。しかし、これが通るようなら、後手が少し抜け出しているのかもしれない。

▲2五金には、△4二角がぴったりで、やはり、後手持ちですかね。

112手目△5三同玉まで、必然ながら、さっぱりとしてしまって、後手玉を寄せにくくなってしまったようだ。どうやって手をつなげるか・・・。指すなら▲4五歩くらいかな~と思っていたら、実戦も▲4五歩。う~ん、水琴の読み筋に入ると負けますよ(笑)?

しかし、その次の一手が問題だった。実戦は△6九銀と攻め合いに行った。ここは、△4五銀と歩を払っておいて、もうしばらく面倒を見ておいて、後手優勢だったと思います。結局、感想戦では見落としがあったということだったようですが、現局面、攻め合っても、面倒を見ても、どちらでも勝てそうな感じなので、迷いが生じたということだったでしょうか。結果的には、強気が裏目に出てしまったということで、まあ仕方ないことでしょうか。棋風ですからね。

先手は、拠点を取られなかったので、得たりとばかり▲4四角から後手玉を追い詰める。こんなに気持ちよく追い詰められては、さすがに先手優勢でしょう。逆転したと思います。

119手目▲7九金は、プロの手ですね。再逆転の芽を摘む。こういう手は、死線をくぐってきたプロ棋士の専売特許ですね。

以下は、形を作って、後手投了。

これで、二勝二敗のタイに。やはり、この両者に一方的な結果はあり得ないということですね。

しかし、内容的にはやや竜王が押しているか。名人が勝ったのは、いずれも終盤の一瞬のスキを捉えてひっくり返したという展開。とはいえ、名人は少し分が悪くなってからも、じっと離されずについていっているとも言え、名人も調子が悪いわけではないようだ。今シリーズも、やはりフルセットの死闘になるような気がする。

余談だけど、渡辺-羽生戦の面白いところは、両者ぎりぎりのラインを攻めまくるというところだと思う。選択肢がある局面で、両者とも全くひるまずに過激な手を選んでくる。まるで、この相手に対しては、少しでもひるんで穏やかな順を選んでしまうと、その時点で勝ち目がなくなってしまうという強迫観念が両者にあるようだ。あるいは、せっかくこの両者がタイトル戦で戦っているのに、平凡な順ではつまらないと思っているのか。いずれにしても、何となく互いに特別視していて、ここではとにかく凄いことやらないといけないという雰囲気になっているような気がする。結果として、異次元の応酬が続いて、非常に難解で将棋の奥深さが存分に現れる将棋になっているような気がする。

名局といって良いかどうかは難しい。死闘といったほうがいいのかもしれない。おそらく、今シリーズの棋譜は、少し時間が経たないと正しい評価ができないのではないか。現代将棋の真髄というよりは、もっと先、近未来の要素を含んだ将棋を見ているような気がする。

この時代に生まれて、そういうものを観戦しながら、あれこれとブログを書いたり出来ているのは、幸せなことだ。


タグ:将棋 竜王戦

第23期竜王戦第四局(一日目) [将棋]

渡辺竜王の二勝一敗で迎えた今期の竜王戦第四局。前局は、大逆転と書きましたが、家に帰って調べてみると、そこまでの差はついてなかったようです。先手有利ではあったと思いますが、勝勢(?)というのは言い過ぎでしたね。後手も少し悪くなってから、しっかりついて行っていたようです。それにしても、横歩取りの終盤は、難しいな~[たらーっ(汗)]何にしても、羽生名人は勝ってタイにしたいところ。渡辺竜王とすれば、本局に勝てば防衛に向けて大きな一歩という一局。

本局は、羽生名人が先手番。渡辺竜王は最近角換わり同型腰掛け銀でも矢倉でも羽生名人に勝っているので、当然二手目は△8四歩が予想されます。そこで、羽生名人がどういう作戦を持ってくるのかが注目。

詳細は、中継ページをご覧ください。

予想通り、渡辺竜王は、何でも来いの△8四歩。それに対して、羽生名人は、角換わりを目指しました。角換わり同型腰掛け銀は、ついこの間、渡辺竜王に負けたばかり。ここで角換わり系をぶつけてくると言うことは、何らかの対策を持ってきたはず。

それに対して、渡辺竜王は同型腰掛け銀を受けて立つのか、途中で外すのか。ドキドキ[揺れるハート]

余談だけど、同型腰掛け銀は、先手の勝率が非常に高い。というのも、先手攻勢、後手守勢なので、当然ながら先手番を持って指すためには、攻撃手段の新手を持ってこないといけないわけで、攻撃の新手が出ることが多い。それに対して限られた持ち時間で新手に対応して受けきれるかどうかというと、それは難しいことが多い。もちろん後手番も研究はしているだろうけど、どうしても新手を出されてしまう受け側の方が分が悪くなりがち。そして、その後で試行錯誤しながら後手番の対策が練られきて、少し後手番が勝ちだすと、この戦型を先手が指さなくなり、矢倉とかに流れる。そして、また攻撃の新手が出てくると現れるという繰り返しなので、累積すると先手番の勝率が非常に高くなってしまう。というわけで、勝率が悪いということと実際の形勢とは別問題で、こんなに長い間指し継がれているのは、やはり理論的な形勢自体は難しいということだと思う。

閑話休題。

角換わり腰掛け銀模様と決まってしまえば、しばらくは駒組みが続く。昼食休憩前、35手目▲3七桂まで、先手は、同型は逃げないということらしい。ここまで、後手も素直に追随してきている。・・・ということは、同型に進むかな~と思っていたら、昼休あけの一手は、△3三銀。

△3三銀と上がられて、▲2五歩とする人は少ないと思う。もちろん絶対に無いわけではないと思うけど、やはり先に▲4八飛と回りたいところ。ちなみに、この局面は、最近は、ほとんど先手が勝っているらしい。そこに敢えて踏み込んだからには、渡辺竜王の新工夫が出てくることでしょう。

お互いに入城して、42手目△6五歩から開戦。右桂を跳ねないで突き捨てるのが意表ですが、前例のある局面。突き捨ててから桂馬を跳ねて行くということです。ここは、もし跳ねてから歩を突ければ後手勝勢だと思いますが、突き捨てが先なので先手も受け甲斐はあるようにも思います。でも、主導権を渡してしまうのは、やはり指しづらいでしょう。せっかく先手番なので、攻勢を取りたいところ。

というわけで、継続手段が歩の移動したところに打ち込む▲6四角。これは、渡辺竜王自身も指したことがある手(・・・で、しかも勝った)で、本線。角は今にも死にそうだけど、角銀交換くらいで攻めが続けば勝ちということで、そこまで怖がる必要は無い。

後手は素直に△9二飛。ここは、7三から角を合わせるのも有力らしい。本局は、△9二飛からうまく凌いで6四の角がぼける展開をねらっているのでしょうか。しかし先手としても後手の飛車を僻地に追いやって瞬間的にはかなり気持ちいい。そして、▲4五歩と、いよいよ先手からの攻撃。こちらは桂馬も跳ねているし、飛車も背後に控えているので威力は満点。

▲4五歩、△同歩に、▲3五歩の仕掛けは、自然に見えるけど意外に前例がないらしい。ふ~ん。そうなのか。たしかに同型の時と違って、絶対に突かなくてはならないというものではないみたいだけど、しかしここは一発突き捨てるのが筋な気がするけどね。

ここで、渡辺竜王は長考に沈んだ。やはり前例が少ないので、ここからは手探りか。受けに回る側は、やはり慎重に読まないといけない。そして・・・、△4六歩と突いた。一応、焦点の歩(?)。

こ、これは、難しすぎる。どっちで取るか。手抜きか。何でも一局に見えてしまう[たらーっ(汗)]

飛車で取ると△2八角が気になるけど、一応▲4九飛で受かっているように見えるので、すぐには怖いわけではないと思う。ただ、飛車へのあたりが強くなるので、ちょっと攻めにくくなるか。具体的には△2七角が気になる。

角で取ると、飛車のあたまに蓋が一瞬乗ってしまうし、何かの時に△4七歩と叩かれる筋が気になるか。また同様に△2七角も気になるし、どこかで△4四銀と圧迫されるのも気になる。

というわけで、手抜きかな。端や二筋に突き捨てを入れるなら、今が最後のタイミングか。

決断力が問われる封じ手になりそうだ。決断力を重視する羽生名人の真骨頂となるか。

封じ手予想は、正直全然分かりませんが、一本▲2四歩を突き捨てたいです。見たところ、後手の受けの手として効果が高いのは、△4四銀と△2七角の二つで、この二つがうまく入ってしまうと、後手が良くなりそう。たとえば、ここで単に▲2八飛と回ると、△4四銀から受けきられそう。同型でもぎりぎりなのだから、この形ではまず受かるでしょう。もちろん二筋は交換できるけど、それだけで終わってしまいそう。どうものれんに腕押しな感じで、技がかかりにくい。

そこで、▲2四歩の突き捨てを入れることによって、まず銀の動きを牽制する。もし、△2四同銀なら、中央が薄くなるので、戦いながら▲4五桂と跳んだときに効き目が違う。よって、△同歩でしょう。そこで、▲2八飛と回れば、△2七角と打てないし、そこで、△4四銀とは上がりづらいかと(それでも有力かもしれないけど・・・)。

あとは、端でしょうか。どこかで一歩補充したり、4六角から端を絡めたりする構想だと、突き捨てておくのは有力かもしれません。


タグ:将棋 竜王戦

ナショナリズムに関する一・二の考察(3) [夜話]

なぜ、今ナショナリズムが流行るのか。

それには、複数の要因が考えられるが、メジャーと思われる二つの理由を挙げたい。

一つは、先進国の先行き不透明感や閉塞感があげられると思う。結局、何を目指せば良いのか分からない状況が続いている。そういうときに、ナショナリズムは一定の答えを与えてくれる。「国のため」と言う、わかりやすく、かつがんばり甲斐がありそうで、きっとみんなから誉めてもらえそうなテーマを提供してくれる。そして、その中に身をゆだねれば、熱狂的な一体感まで得られる。自分で人生の目標を見つけられないとき、あるいは見失ってしまったとき、これはなんとも単純明快で魅力的ではないか。

二つ目は、もう少し本質的な問題である。それは、国家という派閥の後ろ盾を失ったとき、人間は本当に世界を相手に一人の個人として、立ち回り続けられるのかという問いである。世の荒波に、独りでボートをこぎ出して大丈夫なのかという不安と、そしてその航海の現実的な困難さが、やはり重くのしかかってくるのではないか。

実は、国民国家の黎明期にも似たようなことがあったと思われる。国民が初めて国政を握ったとき、革命の喜びもつかの間、諸外国からの干渉に耐えなくてはならなくなった。そのなかでナショナリズムが勃興したという経緯がある。このときこそは、市民が国民になった瞬間であり、要するに外界の荒波を強く意識させられた瞬間だったと思われる。

時代は下って、現代もまた、ますます進むグローバル化により、一層、一人一人の人間が"世界"にさらされることが増えている。そして、そのことが結局、精神的にも物質的にも自分を保護してくれると期待する国家という派閥の重要性を再認識させるという結果になっているのではないか。

その結果、グローバル化が進むほどに、裏ではナショナリズムが盛んになると言う一見逆説的な現象が発生することになっているのではないかというのが、私の見方である。


タグ:政治 時事
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ナショナリズムに関する一・二の考察(2) [夜話]

そもそもnationというのは、もとは同郷の派閥というような意味だったようだ。それが、転じて現在のような用法になったらしい。

あまり言葉遊びに走らない方が良いかもしれないが、水琴は、ここに何かしらのヒントがあるような気がしている。すなわち「同郷」というものの定義は何かということと、結局は「派閥」であるということである。

同郷というもののイメージは人それぞれに異なるだろうし、同じ人でもタイミングによって違うと思う。水琴は年に数回海外出張するけれど、欧米にいると何となくアジア人くらいまでは近しい気がしてくる。アジアに居ると日本ということを意識する。また、海外出張から帰ってくるときは、日本の空港に到着すれば、もう帰ったような気分になる。東京に居るときは、岐阜県内+名古屋圏くらいの範囲が故郷な気がする。実家に帰れば、町内こそが故郷だ。そういうときは、我が町と隣町は違うという気になっている。東京から見れば、点に過ぎないのだけど。

結局、「同郷」のイメージは、そのとき置かれた環境や、その人の経験によって変わってくる。その範囲を「日本」におくということは、あまたある選択肢の中の一つにすぎないようにも思われる。しかし、国家というのはかなり大きい範囲であり、多くの場合、想像しうる最大の同郷集団であろう。日本の場合は、比較的まだ想像しやすいほうだと思うが、中国などの場合では果たして心底中国が同郷集団であると思っている人はいかほどであろうか。

いずれにしても、広い範囲を「同郷」と認識するためには、少なくともその外を意識する必要があるし、またかなり異質な者も内部に取り込める度量がなければならない。したがって、国家レベルのナショナリズムを意識するためには、前提として世界と自国に対する博い見識と想像力を持っていないといけないということになる。これが、ナショナリズムの魅力であり、また多くの人が共有することが難しい原因ではないか。すなわち、ナショナリズムの魅力に取り憑かれる人々というのは、要するにそういう幅広い見識と度量を備えたナショナリストにまず惹かれるのではないかと思うのだ。できれば自分もそうなりたいと願うであろうし、そうでなくともその"崇高な理想"の一翼を担いたくなるだろう。そして、それは"自分たち"の利益になることなのだと信じることができる。

一方で、国家とは異なる「同郷」の定義を持つ人々にとっては、理解しがたい(もしくは理解したくない)思想であろう。国家よりも広い範囲を「同郷」と思っている人にとっては、狭量な局所最適化思想と見えるだろう。結局のところ、同じ人間なので、外国であっても多くのことは似通っているものだ。海外経験がある人は、違いにも驚くが、でも実は意外と同じ所も多いのだということにも驚くという経験があるのではないか。一方で、国家よりも狭い範囲を「同郷」と思っている人にとっては、別に国家レベルの事なんて私には関係ないし~とか思うことになるだろう。

結局、思想・信条の自由が保証されるならば、極めて多様な「同郷」レベルの階層で"ナショナリズム"が存在し得るというのが自然な状況であろう。国家レベルにおけるナショナリズムは、しかし、大多数の人がぎりぎり実感を伴って想像しうる最上のレベルであり、その意味で特殊な地位を占めているのではないかという風に考えられる。

ここまで、「同郷」というもののとらえ方について見てきたが、もう一方の派閥という点についてはどうか。派閥というのは、それを包含するような、より大きな社会集団の部分集合であり、利害を共通するものから成っている団体というイメージがある。これもナショナリズムの本質を突いているように思われる。派閥であるから、地球規模での協調へと進化する気遣いはない。仮に、火星人や金星人などというものがいて適度に協調したり利害対立してたりすれば、プラネティズムというものが生まれる可能性はあるかもしれない。しかし、現在の所はそういう心配はなさそうである。

また、内部では一定の共通の利害が共有されていて(もしくは、と信じていて)、その利益追求を至上命題とする集団であるという特徴は、まさしく「国益」という語に集約されているように思われる。

そして、いくぶん厄介なのが、派閥の内部の意見を集約するときには、大体その中で最も血の気が多い方に引き寄せられるという傾向があることだ。端的に言ってしまえば、人は、熱血と熱狂に弱いのだ。そして集団心理。そういうものが相まって、結果的に過激化しやすいという性質がある。そして集団が大きくなればなるほど、集団心理は強力になるし、集団の平均から離れた人間を包含する確率が高くなるので、より過激化しやすくなる。これもまた、ナショナリズムの特徴の一つとして認識されていることであろう。一方で、そのことが、世界の中で、国家を最強クラスの圧力団体たらしめているわけで、もちろん恩恵も多い。ただし、諸刃の剣であることを忘れないようにしたいということである。

総合すると、結局人間の日常的な想像力・理解力の限界ぎりぎりの最大の同郷派閥主義というのが、いわゆるナショナリズムではないか・・・というのが、今の私の理解である。最大級であるということは、思想として"立派そう"ということにつながるし、現実に発揮しうる力の大きさとしても最大級であるということも忘れてはいけないポイントであろう。

人間というのは、とかく派閥を作るのが大好きなので、いわゆるナショナリズムは、その一形態として、やはり自然に発生したものであろう。その意味では、ナショナリズムは自然な思想のあり方の一つと言えよう。しかしながら、国家レベルが同郷集団だという認識を初めて多くの人々が共有できたのは、やはり国民国家の誕生まで待たねば成るまい。当たり前だが、国家に国民が大いに関わってこない限り、そういう意識はあり得ないはずだ。その意味では、国民国家の誕生とともに作られた思想だという見方も可能だろう。その意味では、ナショナリストが、ナショナリズムは自然な思想であると主張しているのも間違いではないし、また、ナショナリズムは近代国家以降の特殊な思想であるという学説も、間違いではないと思われる。

ところで、そうであるばらば、なぜナショナリズムが、今になって、また大いに取り上げられるのであろうか。むしろ、ここ最近は、概して言うと国家の枠を超えた世界協調が大事だというような流れが顕著になってきている時代ではなかったのか。身近なところでも、概して言うと派閥主義は嫌われる傾向にあるように思われる。また、インターネットを通じて、誰もが個人として"世界"に参加できるようになりつつあるわけで、その意味では、国家というものにとらわれず、個人で色々とできることも増えたはずである。しかるに、何故、今の時代にナショナリズムは台頭してきているのか。

ここまでの考察では、その点に対する説明は、やや不十分だったように思われる。

次へ続く。


タグ:政治 時事
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ナショナリズムに関する一・二の考察(1) [夜話]

第二次世界大戦後の我が国において、今こそはもっともナショナリズムが吹き荒れている時期だといっても過言ではないだろう。ごく最近だけに絞っても、尖閣諸島の問題しかり、北方領土問題しかり。政府の無策と迷走は、さらに火に油を注いでいるようにも見える。

結論から言うと、私自身は、浮ついたナショナリズムに与する気はない。

一つには、私はナショナリストが概して嫌いだからだ。私が出会ってきた多くのナショナリストは、自分たちだけが憂国の士で頑張っているのだという変な優越感にひたり、ナショナリズムが本来的に我欲の衝突にすぎないという事実を忘れている。ただ、それが国家レベルでの話であり、「お国のため」という格好良いお墨付きがあるというだけだ。しかし、それを自覚せずに、ただ自分が国家に貢献しているという妄想に酔い、色々とおしつけがましいことを言うという特徴がある。もちろん、本格派の右派論者は、そういうことはなく、ナショナリズムが含んでいる偽善の部分についてもしっかりと自覚した上で、それでも、守るべきものは守っていかなくてはいけないのだということを丁寧に議論しているのだが、にわかナショナリストがネット上に大量発生している昨今では、希少と言わざるを得なくなった。残念なことである。

二つ目には、ナショナリズムというものの正体が、いまいち良く分からないからだということもある。私は自分自身はナショナリストではないと思っているが、それなりに愛国心らしきものがあるようだし、尖閣諸島の件についてはもちろん当初から憤りを感じていた。しかしながら、この愛国心はどこから生まれているのか、尖閣諸島のような事件が発生した場合に、何故憤りを感じるのかと言うことについて、明快に説明できないところがあるのだ。これが自分の中で納得のいく説明ができないうちは、ナショナリズムに与することはそもそも根本的にできっこないとも言えよう。

しかしながら、こうも曖昧な状態では、どういう話をするにしても論陣を張ることは難しい。そこで、少し自分なりにナショナリズムについて、考えをまとめておこうというのが、狙いである。理系脳がこういう分野のことを突っ込んで考えたりするとどういうことになるのかというのも、我が事ながらちょっと興味深い。

本題は、・・・つまるところ、ナショナリズムとは何か。どこから生まれて、人々をどこへ連れて行こうとしているのか。

この基本的な問いの答えは、しかし、驚くべき事に、いまだ結論がでていないというのが実態のようだ。このように人口に膾炙しているものでありながら、その正体は突き止められていないのだ。それは、ナショナリズムという思想について、歴史に名を刻むべき"偉大なる思想家"が輩出されていないと言うところに、端的に現れているように思われる。

単純に考えるならば、ナショナリズムを構成するための必要条件(十分条件とは限らない)は、固有の領土を持つ、国民国家(ネーション)の存在であろう。しかし、固有の領土という概念も、国民国家の概念も、歴史的には極めて最近に誕生したものである。国民国家自体が、少なくとも普通選挙が行われないことには、成立しない。さらに、固有の領土という概念も古いようで新しい。領土が王家の私有地ではなく、国民の公有地として定義され、かつ排他的な性格を有したのは、歴史的にはずいぶんと新しいことだ。未だにあまりそういう思想になじんでいない民族もいるぐらいだ。ということは、ナショナリズム自体が、きわめて新しく、国民主権という概念以降の産物ということになる。この流れからすれば、国民が政治に参加しているからこそ、自国民と他国民が明瞭に区別されるし、国民国家の究極の目的が国民の幸福であるから、"国益"というものが国民の中で定義される。国家は国民の利益を守り、できれば増やすように動くことが宿命づけられる。そして、それを国民自身が担うのである。それゆえ、その一部としてナショナリズムが興ったというふうに理解することができよう。

だいぶ大ざっぱにまとめているが、こういう考え方が、学界の主流であるようだ。しかし、これは本当であろうか。

この説明は、かなり本質をついているようにも思われるが、観測事実を十分説明し得ていないところがあるようにも思われる。

まず、何故"国家"レベルの利益追求なのかということである。県民ショーなる番組が、それなりにウケていることからも明らかなように、我々は例え国内であっても縁のない地域のことはほとんど知らないのだ。そのように知らない他人のために、"国益"を主張し、そのために色々と投げ出せるのは何故かということである。

知り合いの多い、生まれた街とか、ご近所とか、そういうものの利益を守りたいというのは、社会生活本能とも言うべきもので、間違いなくサルやそれ以前の群れで暮らすほ乳類の時代から持っている生物学的な機能だということで良かろう。

それとは全く逆に、そういうしがらみから全く離れて、理想論の究極たる地球規模での協調主義というのもあり得るだろう。"世界の利益"を追求する・・・というのは、実現の難しさはさておいて、一つの理想論としては万人に受け入れられるものであろう。ご近所愛か、世界的博愛か。この両極端は、それぞれに根拠があり、誰もがその考えを認めそうである。しかし、国家というのは、その意味では中途半端な集団階層のように思えてくるのだ。構成員間には、中途半端につながりがあり、中途半端に他人である。

次に、本当に国民国家が必要条件なのかどうかである。たとえば、小学校の運動会を思い出してみよう。紅組と白組に分かれた瞬間に、それぞれの組でナショナリズム様の高揚感が湧いては来なかっただろうか。あの感覚は、ナショナリズム様であってナショナリズムではないのかもしれない。しかし、どう区別すればよいかは難しい。とりあえず、紅組、白組は内部に参政権があるわけではなく(当然だが)、組の政治は、教師と団長とその側近くらいの密室協議(笑)で決まっていたはずだ。であるにも関わらず、団員は団結して組全体の利益(得点とか)を向上させることを考えながら戦えていたはずだ。学校全体で組み分けするわけだから、当然知らない子もたくさんいるわけだし、一応陣地や応援席という排他的"領土"を持っているわけだし、小規模で簡潔ながら模擬的には参政権のない国家に近い要素を備えているように思う。そこで、味わったあの感覚は、ではどう説明するのか。・・・ということになる。

最後に、本当に"固有の領土"を有する必要があるかということにも若干の疑問を呈したい。"固有の領土"というのは、ナショナリズムとセットのように思われているが、必ずしもそうではないような気がする。たとえば、遊牧民にとっては、"固有の領土"というのは極めて理解しにくい概念であろう。そのあたり一帯を利用するということであって、厳密な境界など意識していないはずだ。では、遊牧民族社会にナショナリズム様の感覚は皆無なのかというと、そんなことは無いだろう。

三つの疑問のうち、一つ目は、端的に言うと"反ナショナリズムの感覚"のどこにほころびがあるかを探るということである。というのも、国家レベルであるが故に、対外的には摩擦が発生するし、対内的には国民個人の人権を犠牲にしても国益を求める可能性があり、対外的にも対内的にも両面に問題を抱えることにつながるからである。そこが、ナショナリズムの本質的な問題点である。これが、仲の良いご近所集団ならば、対外的には衝突するかもしれないが、内部の利害は基本的に一致していて対内的には問題は発生しないだろう。世界的協調の場合は、究極の全体主義であるから個人の人権が脅かされる可能性はあるが、対外摩擦はない。そこをあえて、両面に問題を抱えるレベルの思想を選択するのは何故か・・・ということは、ナショナリズムに対する根源的問いであろう。

後ろ二つは、端的に言ってしまえば、"ナショナリストの感覚"を客観的にどう分析するかと言うことである。自分の属する集団に対する愛着は、極めて自然な発想であって、だからナショナリズムは自然な思想だという主張には間違いはないのか。ここでは、"自分の属する集団"が一度定義されてしまえば、そこに愛着を覚えるのは社会的動物の本能であって、これ以上は生物学に任せれば良いはずだ。おそらく"自分の属する集団"をどう把握するかということに、問題の焦点があり、その意味では一つ目の疑問と裏でつながっていると言えよう。

続く。


タグ:政治 時事
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5cm/s [夜話]

テレビで、秒速5センチメートル a chain of short stories about their distanceを見ました。

良い作品ですね。特に、第二話のコスモナウト。願わくば、実写が良かったけど・・・。花苗は志田未来とか。あ、でも貴樹をやれるような俳優が難しいか。

第一話の設定が中学一年生、第二話が高校三年生・・・だけど、年の割に大人っぽいですね。でも、そういうとこも含めて好きです。きっと、良い感じに思い出をくすぐられるからだね。こういう感じのこと、あったよな~って。

第三話は、よくできてると思うんだけど、年齢設定がジャストってところも東京に出てきてるところとかも、何だか日々仕事に追われて硬直した感じなんかも、主人公の境遇に、身につまされるところがあって、ちょっとまともに見れませんでした(>_<)・・・というか、第三話は、そこで終わらないで~って感じだった。この先を、どう乗り越えていったらいいのか、どうしたらいいのか。見せて欲しかったのかもしれない。たとえ、それが私の甘えだとしても。

どうも、最近自分に何かが足りない気がずっとしているんだよね。それが何なのかが、分からない。とらえられそうで、つかみどころがない。でも、かつての自分は少しだけど持っていたような気もする。希望とか夢とか、そういうものに近いんだけど、でもちょっと違う。・・・確かなことは、今の私は漠然と未来に自信が持ててないのだ。

もちろん私は、小さいときからなりたかった研究者になっているし、たくさんの周りの支えもあって、最善のルートを歩んでこれたな~とも思う。そしてまた、研究自体も、今のところ別に行き詰まっているわけではない。むしろ好調と言ってもいいかもしれない。でも、何か、今のままではいけない気がする。このままでは、近いうちにどこかで行き詰まってしまうような気がするのだ。

水琴は、研究者かつ教育者にもなりたいと思っている。だから大学に残る道を選んだ。のたれ死んでも良いから、とにかく自分の人生をそういう方向に使いたいと思った。その覚悟は今でも変わらないつもり。

でも、実務的なところでは、少し甘かったのかもしれない。そう、最近の悩みの一つの原因には、教育の部分に少し思っていたのと違うところがあるからじゃないかと思う。昔から、人にものを教えるのは、すごく得意なつもりだったし、学生時代から後輩たちに色々と教えてきて、それなりに成果出てたと自負するところもある。でも、教育はそういうことだけではないってことが最近分かってきた。知識とか技術とかをわかりやすく伝えることだけでなく、その前提として、もっと、根本的に人間としての成長を促さないといけないのだ・・・ということを強く思わされることが、最近、特に多い。そして、それがすごく難しいんだということが、実感できてきたということかもしれない。最近は、全然やる気のないチャラい学生はもとより、学生の引きこもり、うつ、非定型うつ、果ては自殺まで普通にあることになってきている。実際、私の近くで発生していることだ。そういうことを回避しないことには、そもそも知識も技術も伝達できない。そもそも論として知識や技術自体も、その人の人生経験と無関係ではなく、深く理解するためには一定の哲学を必要とするという面もある。

それから、学生が「こういう研究をやりたい」と言ってくることと、本人の適性が合ってない場合に、いかに引導を渡すのか・・・も悩ましい。最近は自分を客観視できないのか、数学が全くできない学生が数学的なところを前面に出した研究をしたがったりする。それは、客観的には無謀としか言いようがないのだけど、しかし、「あなたには、こういう研究は能力的に無理だ」・・・というフレーズは使いたくない。それを言わずに、自ら気づけるような能力をつけてあげなくてはいけないんだと思う。回りくどいようだけど、単刀直入に答えを与えるのが良いとは限らないよね。

ただ、言うは易く行うは難し。今は、やっぱり学生の不思議言動に普通にイライラしてしまったり、怒りが湧いてきたりする。そういう意味では、私自身もまた、未熟なところがあるわけで、たぶん今の自分ではだめなのだ。もっと人として成長しないと。そのためにも、ただ仕事に追われるばかりの硬直した日々を送っていてはいけない。・・・と思うのだけど、どう打開するのか具体的に見えてはいない。

このブログを始めたのは、何かしらの変化を自分に与えたかったからでもある。とにかく今までやってこなかったことや、昔やってたけど最近やってないことを見直したり、あるいはダメだなと思われる部分と決別するとかして、糸口を探っていかなくては。

というようなことを、最近つらつらと考えたりしているので、第三話の続きが猛烈に知りたかったのかもしれない。

・・・だいぶ元の話とはずれちゃったけど、でも、今回、文章にして少し書き起こしたおかげで、何となく自分の中で整理できてきたかな。焦りは和らいだかも。

一歩ずつ頑張っていこう。


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どうぶつしょうぎ [夜話]

おお、楽しみにしていたのが、ついに量産(?)されるようになりましたか。→大きな森のどうぶつしょうぎ

前から欲しかったんだけど、気づいたら売り切れてて・・・(>_<)

今回は、ばっちり予約しましたっ[手(チョキ)]

商品が届くのは12月らしい。週末を配達日指定しようと思ったら、中旬になっちゃうけど・・・。仕方ないか。12月中旬は、海外出張があるので、その直前に届くように指定。届いたすぐ後に出張って言うのが少し悲しいですが・・・。いやむしろあちらへ持って行って普及活動してくるか(笑)?


す~ぱ~・くりてぃかる [夜話]

「超臨界流体」って、聞いたことありますか?英語だと、super critical fluid.

通常、物質には三つの相があって、気体・液体・固体のいずれかです。水だったら、水蒸気・水・氷というわけですね。でも、どんどん高温・高圧にしていくと、水と水蒸気の境目が曖昧になって、超臨界水と呼ばれるものになる。超臨界水は、非常に活性が高い。たとえば酸素をとかした超臨界水を使って有害物質を強力に酸化して分解するなどへの応用が研究されているらしい。超臨界二酸化炭素というのも結構使われているみたい。工業的なコーヒーの抽出などなど。超臨界二酸化炭素で抽出すると、コーヒー成分のほぼすべてを抽出することが可能で、出がらしの豆は白い灰のようになるそうだ。

超臨界状態というのは、概して言うと、密度は気体にしては高く、粘りけは液体にしては低い(サラサラ)という性質がある。高い密度は、高活性のもとであり、さらさらなのは、いろんな隙間に入り込みやすいということだ。だから、コーヒーがよく出るというわけだね。

しかし、まあ、それはそれ。結構特殊な条件下の話でしょ、それ。・・・と、水琴は思っていた。超臨界状態って、名前からしても何だか凄そうだし(笑)

それがですね。ひょんなことから、調べてみたら・・・。実は我々は超臨界状態の流体に毎日触れているということのようです。

さて、それは何でしょう?


答えは、空気。空気の超臨界温度は-140℃くらいなので、常温では思いっきり超臨界状態でした[たらーっ(汗)]

私たちは、毎日超臨界流体を吸い込み~吐き出しているという過激な(?)ことをしていたのです。当たり前のように。

まあ、知ってる人にとっては常識。当然のように知ってることで、たいしたことじゃないんでしょうけど、初めて知った瞬間は、すごくびっくりしましたっ。

超臨界二酸化炭素も別にそんなに驚くことでもないらしい。31℃以上なので、我が故郷、多治見ならば、夏は余裕で超臨界ですな。ん?ということは、夏場は二酸化炭素のボンベを揺らしてもぽちゃぽちゃという音がしなくなるのか?液体じゃなくなるわけだからね。簡単に検証できますな。ふむ。今度やってみよ。

しかし、超臨界二酸化炭素なんて浴びたら、出がらしになってしまうよ~(>_<)・・・ということではないらしいね。一口に超臨界と言っても、その性質は幅広いと言うことですね。かなり温度圧力条件が揃わないと、過激な性質は発現しないと言うことのようです。そういえば、超臨界研究の研究者が、温度圧力条件を少し変えるだけで性質が急変するとか言ってたのを聞いたことがあるような気がするな。そのときは、「ふ~ん、そりゃ面倒ですな~」くらいにしか思ってなかったけど[たらーっ(汗)]

同じ理系分野と言っても、専門外の事って、基本的なことから知らなかったりすることあるんだよね。

いや~、久しぶりに面白いこと、勉強しちゃったな~という感じです(^_^;)


タグ:科学
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